エトスのある理由

久しぶりにこのネタで書きます。

人が誰かを信じるときって、最初はかなり辛い評価をしてしまいます。これは仕方のないことです。信じた通りに進んだ場合、その人の評価が上がり、次回からの判断基準のひとつとして使われます。

これがエトスの正体です。

エトスには、そのひとが大学教授であるとか自分自身が判断してないケースもありますが、これは世間一般の判断を自分の判断基準に流用することになります。

こういったエトスの利点とは、処理ステップの省略という点であり、これを使うことにより、余った時間を別のことに使えたりします。

んで、欠点は当たり前ですが、間違えちゃうケースがある点です。

まあ結論としては、エトスによりすぎても駄目だし、ロゴスによりすぎても駄目って事になります。

なんだ結局中庸論かよ!とか言わないで。

このシリーズは携帯から書いてみたんですが、携帯で書くとえらく疲れますね。推敲とかもできないし。これに慣れる日はくるのだろうか。

判断の決め手

エトスとロゴスの説明を受けて単純に考えると、エトスよりもロゴスの方が正しいように見えるかもしれません。
しかし、エトスとは過去の経験からしか作りあげることができないため、実はエトスの方が容易に成し遂げることができないのです。

ヒトは学習する生き物です。

エトスによる判断とは、その特性が見事に反映されています。

最近の傾向として、論理的に正しいかどうかで判断しろ(ロゴスによる判断)といった風潮がありますが、そう主張する人には、エトスと言う概念が何故あるのかをぜひ考えて欲しいです。

続くかも。

エトスとロゴス

エトスとは情報自体のもっともらしさではなく、情報にまつわる属性から情報自体が正しいかどうかを判断することです。(本来の意味は違うのですが現代風に言い変えてます)
つまり、情報が文章だったとして、その文章を発表した「人物」や発表された「場所」などの属性から文章を正しいかどうか判断することになります。
もっと具体的にするなら、新聞に書いてあるから正しいとか、大学の教授が言うから正しいなどです。

これに対して、情報自体のもっともらしさで正しいと判断することをロゴスと言います。
つまり、情報が文章だったとして、その文章が論理的に正しいかどうかで正しさを判断することになります。
より具体的にすると、ある情報が理由がもっともらしいから正しいとか、情報自体が映像だから正しいなどです。

続きは、また今度書きます。

信じるとは?

ある事実があったとして、それを信じるかどうかってのは実はとても難しいことです。
ヒトは自分自身が経験できることはとても少ないため、誰かの言ったことをなんらかの基準で正しいのかどうか判断しなくてはなりません。
そのための基準のひとつとして、エトスとロゴスがあります。

続きはまた今度。
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