2006.07.30 Sunday
YouTubeにおける著作権の問題について(2)
YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見募集
(http://satoshi.blogs.com/life/2006/07/youtube_2.html)
先日書いたYouTubeと著作権に関する記事の元ネタの中島さんが、CNETではないブログ上で意見を募集してました。気付くのが遅すぎなんですが、遅すぎなりに書いてみたいと思います。
今回の質問は
ということなので、前回と違って「従来からの引用」という定義に惑わされず、考察を行っていきます。
■結論
まず、結論から言うと、現在のYouTubeによるTV番組の共有状態は「著作権の立法趣旨から考えるに、良識的に認められる行為ではない」といえると考えます。
■著作権で守ろうとしているのは何?
最初に確認しておくべきこととして、著作権が守ろうとしているのは「社会全体で見た場合の文化の発展」です。これは、著作権法第1条を見れば明らかです。
■何故「著作権」があるの?
上記の著作権法の立法趣旨を頭に入れた上で、何故「著作権が存在しなければならないのか?」を考えると、文化の発展に寄与する「創作」という活動へのインセンティブ(誘因)であると定義できます。
■著作権があるという状態は?
ある著作物に対して権利があるという状態は、ある著作物を自分の思い通りにコントロールすることができるということです。
つまり、その著作物を変更することも複製することも、誰かに使用を認めることも、著作権を譲渡したり放棄したりということも自由自在だということです。
この状態が、創作という活動へのインセンティブになるというのは説明の必要はないかと思います。(分からない人が居れば、コメントしてください。そちらで説明します。)
■何故引用が認められている?
では、著作者がコントロールすることができない引用という定義を、何故著作権法に盛り込んでおく必要があったのでしょうか?
それは、二つの点が考えられます。一つは「著作者の煩雑な作業を無くす」ことで、もう一つは「正当な批評や批判を認めることで文化の発展を促す」ことを狙っているという点です。
一つ目は簡単に理解できるかと思います。引用という定義ぐらいの著作物の利用であれば、著作権者への許諾作業を義務付けると著作権者は大変です。ですので、ある一定の基準内の著作物の利用は、著作者に無断で使ってもよく、著作権者がコントロールできない範囲として定義づけました。
次に二つ目の点についですが、批評・批判活動というのは原著があった上でなされる行為であるため、これを著作権者のコントロールの配下においてしまうと、実質、批評や批判といった行為はかなりの制限ができてしまい、著作権者によっては、正当な批評や批判であっても許されないという事態に発展しかねません。
これは、現在の権利者のインセンティブを強くしすぎると後世の創作活動への阻害となるという意味でも文化の発展を阻害してしまうということが考えられました。
そういう意味もあり、著作物には「引用」という著作権者に許諾を得なくとも利用できるという抜け道が用意されています。
改めて言うまでもありませんが、著作権者の許諾をもらいさえすれば、引用どころか複製だろうが販売だろうが譲渡だろうが放棄だろうが、何でもできることになります。このポイントを忘れがちなので、改めて記述しておきます。
■YouTubeでのTV番組の利用は?
ここまでを踏まえて、YouTubeにおけるTV番組の共有という状態を考えると、YouTubeにおいてTV番組の共有を行うことで「文化の発展に寄与する」ことができるのでしょうか?
中島さんは「個人的体験の共有」という定義で合法性を主張していますが、それが果たして「文化の発展に寄与する」のでしょうか?
もし、「個人的体験の共有」が「文化の発展に寄与する」とし著作権法上で自由に利用してもよいと認められると仮定するならば、「個人的体験の共有」の名の元に全ての著作物は複製可能である状態になります。
これは、著作権法ができる以前の状態に戻ることになります。著作物の複製を、個人レベルで簡単に作成できてしまうという現在の技術的な状況があり、個人の体験を共有することは著作権者のコントロール配下にはないという状態を想像してください。
そうです。全ての著作物は、著作権者がある一人の個人に使用を許諾した時点で全ての人に許諾したのと同じ状況になってしまいます。何故ならば使用許諾した人が「感動した」といって、作品の全体を好きなように複製することができるということになるからです。もちろん、個人の体験の共有ですから「感動した」でなくても「気に入らなかった」でも良いわけです。
私には、この状況は創作者へのインセンティブがないという理由から「文化の発展に寄与する」状況だとは到底思えません。
■その他の仮説は?
残念ながら、中島さんの仮説以上の仮説は出てきておらず、例えば「スプーの奴とか誰が損してるの?」みたいな論旨については、後述する利益だけに目を向けてはいけないという形で反論になるかと思います。
(蛇足ですが、法律といった様々な視点から考えなくてはならないため、今回のような質問に対して、たった一つの事例だけで全てを包括してしまおうという論理は、全く逆の事例を出された瞬間に崩壊します。そのような論旨を立てた方はご注意を。)
■著作者の利益という話
ココまでで終わってしまっても良いのですが、元記事においてビジネスという単語も出てきており「著作権者の利益」という点での考察も必要かと思いますので、私の考察上のスタンスを明確にしておきます。
私の考察において、「著作権者の利益」は実は全く考えていません。それは、著作権者は著作物を自分の思うとおりにコントロールすることができるというのが著作権法で大事な点であり、著作物によって利益を得ることができるかどうかという点までは著作権法では考えられていないからです。
これは、著作物には著作人格権という権利が認められているように、著作物はそのまま著作者の人権にまで関わってくる問題であり、ビジネスや利益の話だけじゃ解決しないということです。
つまり、もし仮にビジネスや利益の路線で論旨を構築していくのであれば、著作物を「ビジネスにまで発展させて利益を得る」という行為が、「文化の発展に寄与する」という明確な論旨を確立するとともに、「権利者の人権」についての考察もしないといけないと考えています。
残念ながら、法律を体系立てた勉強をしてない私の現状では、法律全体からの視点で著作権法を考えるだけの知識はありませんので、こういった筋道で論破しようとされている方の意見を楽しみに待っていようと思っています。
■YouTubeを健全な状況にするために
というわけで、全体の論旨としては現在のYouTubeでのTV番組の共有という状況に苦言を呈した形となるわけですが、YouTube自体はとっても素晴らしいサービスだと思っています。
もし、仮に著作権法においてYouTubeの現在の利用状況を適法であるとまとめるとするならば「フェアユース」という概念を、日本の著作権法にも持ち込む必要があると考えます。ネット社会におけるフェアユースの概念については、藤本英介弁護士の「ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)」をご覧ください。
(http://satoshi.blogs.com/life/2006/07/youtube_2.html)
そこで質問である。テレビ番組の一部をYouTubeに上げてそれに関しての自分の意見を表明することは、ブログに新聞の記事の一部を引用して自分の意見を表明するのと同じように許されるべきなのだろうか。ただし、現行の著作権に照らして合法かどうか、という質問ではないので誤解しないでいただきたい。あくまで、「良識的に見て許容範囲かどうか」という質問である。
先日書いたYouTubeと著作権に関する記事の元ネタの中島さんが、CNETではないブログ上で意見を募集してました。気付くのが遅すぎなんですが、遅すぎなりに書いてみたいと思います。
今回の質問は
ブログに新聞の記事の一部を引用して自分の意見を表明するのと同じように許されるべきなのだろうか
ということなので、前回と違って「従来からの引用」という定義に惑わされず、考察を行っていきます。
■結論
まず、結論から言うと、現在のYouTubeによるTV番組の共有状態は「著作権の立法趣旨から考えるに、良識的に認められる行為ではない」といえると考えます。
■著作権で守ろうとしているのは何?
最初に確認しておくべきこととして、著作権が守ろうとしているのは「社会全体で見た場合の文化の発展」です。これは、著作権法第1条を見れば明らかです。
■何故「著作権」があるの?
上記の著作権法の立法趣旨を頭に入れた上で、何故「著作権が存在しなければならないのか?」を考えると、文化の発展に寄与する「創作」という活動へのインセンティブ(誘因)であると定義できます。
■著作権があるという状態は?
ある著作物に対して権利があるという状態は、ある著作物を自分の思い通りにコントロールすることができるということです。
つまり、その著作物を変更することも複製することも、誰かに使用を認めることも、著作権を譲渡したり放棄したりということも自由自在だということです。
この状態が、創作という活動へのインセンティブになるというのは説明の必要はないかと思います。(分からない人が居れば、コメントしてください。そちらで説明します。)
■何故引用が認められている?
では、著作者がコントロールすることができない引用という定義を、何故著作権法に盛り込んでおく必要があったのでしょうか?
それは、二つの点が考えられます。一つは「著作者の煩雑な作業を無くす」ことで、もう一つは「正当な批評や批判を認めることで文化の発展を促す」ことを狙っているという点です。
一つ目は簡単に理解できるかと思います。引用という定義ぐらいの著作物の利用であれば、著作権者への許諾作業を義務付けると著作権者は大変です。ですので、ある一定の基準内の著作物の利用は、著作者に無断で使ってもよく、著作権者がコントロールできない範囲として定義づけました。
次に二つ目の点についですが、批評・批判活動というのは原著があった上でなされる行為であるため、これを著作権者のコントロールの配下においてしまうと、実質、批評や批判といった行為はかなりの制限ができてしまい、著作権者によっては、正当な批評や批判であっても許されないという事態に発展しかねません。
これは、現在の権利者のインセンティブを強くしすぎると後世の創作活動への阻害となるという意味でも文化の発展を阻害してしまうということが考えられました。
そういう意味もあり、著作物には「引用」という著作権者に許諾を得なくとも利用できるという抜け道が用意されています。
改めて言うまでもありませんが、著作権者の許諾をもらいさえすれば、引用どころか複製だろうが販売だろうが譲渡だろうが放棄だろうが、何でもできることになります。このポイントを忘れがちなので、改めて記述しておきます。
■YouTubeでのTV番組の利用は?
ここまでを踏まえて、YouTubeにおけるTV番組の共有という状態を考えると、YouTubeにおいてTV番組の共有を行うことで「文化の発展に寄与する」ことができるのでしょうか?
中島さんは「個人的体験の共有」という定義で合法性を主張していますが、それが果たして「文化の発展に寄与する」のでしょうか?
もし、「個人的体験の共有」が「文化の発展に寄与する」とし著作権法上で自由に利用してもよいと認められると仮定するならば、「個人的体験の共有」の名の元に全ての著作物は複製可能である状態になります。
これは、著作権法ができる以前の状態に戻ることになります。著作物の複製を、個人レベルで簡単に作成できてしまうという現在の技術的な状況があり、個人の体験を共有することは著作権者のコントロール配下にはないという状態を想像してください。
そうです。全ての著作物は、著作権者がある一人の個人に使用を許諾した時点で全ての人に許諾したのと同じ状況になってしまいます。何故ならば使用許諾した人が「感動した」といって、作品の全体を好きなように複製することができるということになるからです。もちろん、個人の体験の共有ですから「感動した」でなくても「気に入らなかった」でも良いわけです。
私には、この状況は創作者へのインセンティブがないという理由から「文化の発展に寄与する」状況だとは到底思えません。
■その他の仮説は?
残念ながら、中島さんの仮説以上の仮説は出てきておらず、例えば「スプーの奴とか誰が損してるの?」みたいな論旨については、後述する利益だけに目を向けてはいけないという形で反論になるかと思います。
(蛇足ですが、法律といった様々な視点から考えなくてはならないため、今回のような質問に対して、たった一つの事例だけで全てを包括してしまおうという論理は、全く逆の事例を出された瞬間に崩壊します。そのような論旨を立てた方はご注意を。)
■著作者の利益という話
ココまでで終わってしまっても良いのですが、元記事においてビジネスという単語も出てきており「著作権者の利益」という点での考察も必要かと思いますので、私の考察上のスタンスを明確にしておきます。
私の考察において、「著作権者の利益」は実は全く考えていません。それは、著作権者は著作物を自分の思うとおりにコントロールすることができるというのが著作権法で大事な点であり、著作物によって利益を得ることができるかどうかという点までは著作権法では考えられていないからです。
これは、著作物には著作人格権という権利が認められているように、著作物はそのまま著作者の人権にまで関わってくる問題であり、ビジネスや利益の話だけじゃ解決しないということです。
つまり、もし仮にビジネスや利益の路線で論旨を構築していくのであれば、著作物を「ビジネスにまで発展させて利益を得る」という行為が、「文化の発展に寄与する」という明確な論旨を確立するとともに、「権利者の人権」についての考察もしないといけないと考えています。
残念ながら、法律を体系立てた勉強をしてない私の現状では、法律全体からの視点で著作権法を考えるだけの知識はありませんので、こういった筋道で論破しようとされている方の意見を楽しみに待っていようと思っています。
■YouTubeを健全な状況にするために
というわけで、全体の論旨としては現在のYouTubeでのTV番組の共有という状況に苦言を呈した形となるわけですが、YouTube自体はとっても素晴らしいサービスだと思っています。
もし、仮に著作権法においてYouTubeの現在の利用状況を適法であるとまとめるとするならば「フェアユース」という概念を、日本の著作権法にも持ち込む必要があると考えます。ネット社会におけるフェアユースの概念については、藤本英介弁護士の「ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)」をご覧ください。