YouTubeにおける著作権の問題について(2)

YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見募集
(http://satoshi.blogs.com/life/2006/07/youtube_2.html)

そこで質問である。テレビ番組の一部をYouTubeに上げてそれに関しての自分の意見を表明することは、ブログに新聞の記事の一部を引用して自分の意見を表明するのと同じように許されるべきなのだろうか。ただし、現行の著作権に照らして合法かどうか、という質問ではないので誤解しないでいただきたい。あくまで、「良識的に見て許容範囲かどうか」という質問である。


先日書いたYouTubeと著作権に関する記事の元ネタの中島さんが、CNETではないブログ上で意見を募集してました。気付くのが遅すぎなんですが、遅すぎなりに書いてみたいと思います。

今回の質問は
ブログに新聞の記事の一部を引用して自分の意見を表明するのと同じように許されるべきなのだろうか

ということなので、前回と違って「従来からの引用」という定義に惑わされず、考察を行っていきます。

■結論
まず、結論から言うと、現在のYouTubeによるTV番組の共有状態は「著作権の立法趣旨から考えるに、良識的に認められる行為ではない」といえると考えます。

■著作権で守ろうとしているのは何?
最初に確認しておくべきこととして、著作権が守ろうとしているのは「社会全体で見た場合の文化の発展」です。これは、著作権法第1条を見れば明らかです。

■何故「著作権」があるの?
上記の著作権法の立法趣旨を頭に入れた上で、何故「著作権が存在しなければならないのか?」を考えると、文化の発展に寄与する「創作」という活動へのインセンティブ(誘因)であると定義できます。

■著作権があるという状態は?
ある著作物に対して権利があるという状態は、ある著作物を自分の思い通りにコントロールすることができるということです。

つまり、その著作物を変更することも複製することも、誰かに使用を認めることも、著作権を譲渡したり放棄したりということも自由自在だということです。

この状態が、創作という活動へのインセンティブになるというのは説明の必要はないかと思います。(分からない人が居れば、コメントしてください。そちらで説明します。)

■何故引用が認められている?
では、著作者がコントロールすることができない引用という定義を、何故著作権法に盛り込んでおく必要があったのでしょうか?

それは、二つの点が考えられます。一つは「著作者の煩雑な作業を無くす」ことで、もう一つは「正当な批評や批判を認めることで文化の発展を促す」ことを狙っているという点です。

一つ目は簡単に理解できるかと思います。引用という定義ぐらいの著作物の利用であれば、著作権者への許諾作業を義務付けると著作権者は大変です。ですので、ある一定の基準内の著作物の利用は、著作者に無断で使ってもよく、著作権者がコントロールできない範囲として定義づけました。

次に二つ目の点についですが、批評・批判活動というのは原著があった上でなされる行為であるため、これを著作権者のコントロールの配下においてしまうと、実質、批評や批判といった行為はかなりの制限ができてしまい、著作権者によっては、正当な批評や批判であっても許されないという事態に発展しかねません。

これは、現在の権利者のインセンティブを強くしすぎると後世の創作活動への阻害となるという意味でも文化の発展を阻害してしまうということが考えられました。

そういう意味もあり、著作物には「引用」という著作権者に許諾を得なくとも利用できるという抜け道が用意されています。

改めて言うまでもありませんが、著作権者の許諾をもらいさえすれば、引用どころか複製だろうが販売だろうが譲渡だろうが放棄だろうが、何でもできることになります。このポイントを忘れがちなので、改めて記述しておきます。

■YouTubeでのTV番組の利用は?
ここまでを踏まえて、YouTubeにおけるTV番組の共有という状態を考えると、YouTubeにおいてTV番組の共有を行うことで「文化の発展に寄与する」ことができるのでしょうか?

中島さんは「個人的体験の共有」という定義で合法性を主張していますが、それが果たして「文化の発展に寄与する」のでしょうか?

もし、「個人的体験の共有」が「文化の発展に寄与する」とし著作権法上で自由に利用してもよいと認められると仮定するならば、「個人的体験の共有」の名の元に全ての著作物は複製可能である状態になります。

これは、著作権法ができる以前の状態に戻ることになります。著作物の複製を、個人レベルで簡単に作成できてしまうという現在の技術的な状況があり、個人の体験を共有することは著作権者のコントロール配下にはないという状態を想像してください。

そうです。全ての著作物は、著作権者がある一人の個人に使用を許諾した時点で全ての人に許諾したのと同じ状況になってしまいます。何故ならば使用許諾した人が「感動した」といって、作品の全体を好きなように複製することができるということになるからです。もちろん、個人の体験の共有ですから「感動した」でなくても「気に入らなかった」でも良いわけです。

私には、この状況は創作者へのインセンティブがないという理由から「文化の発展に寄与する」状況だとは到底思えません。

■その他の仮説は?
残念ながら、中島さんの仮説以上の仮説は出てきておらず、例えば「スプーの奴とか誰が損してるの?」みたいな論旨については、後述する利益だけに目を向けてはいけないという形で反論になるかと思います。

(蛇足ですが、法律といった様々な視点から考えなくてはならないため、今回のような質問に対して、たった一つの事例だけで全てを包括してしまおうという論理は、全く逆の事例を出された瞬間に崩壊します。そのような論旨を立てた方はご注意を。)

■著作者の利益という話
ココまでで終わってしまっても良いのですが、元記事においてビジネスという単語も出てきており「著作権者の利益」という点での考察も必要かと思いますので、私の考察上のスタンスを明確にしておきます。

私の考察において、「著作権者の利益」は実は全く考えていません。それは、著作権者は著作物を自分の思うとおりにコントロールすることができるというのが著作権法で大事な点であり、著作物によって利益を得ることができるかどうかという点までは著作権法では考えられていないからです。

これは、著作物には著作人格権という権利が認められているように、著作物はそのまま著作者の人権にまで関わってくる問題であり、ビジネスや利益の話だけじゃ解決しないということです。

つまり、もし仮にビジネスや利益の路線で論旨を構築していくのであれば、著作物を「ビジネスにまで発展させて利益を得る」という行為が、「文化の発展に寄与する」という明確な論旨を確立するとともに、「権利者の人権」についての考察もしないといけないと考えています。

残念ながら、法律を体系立てた勉強をしてない私の現状では、法律全体からの視点で著作権法を考えるだけの知識はありませんので、こういった筋道で論破しようとされている方の意見を楽しみに待っていようと思っています。

■YouTubeを健全な状況にするために
というわけで、全体の論旨としては現在のYouTubeでのTV番組の共有という状況に苦言を呈した形となるわけですが、YouTube自体はとっても素晴らしいサービスだと思っています。

もし、仮に著作権法においてYouTubeの現在の利用状況を適法であるとまとめるとするならば「フェアユース」という概念を、日本の著作権法にも持ち込む必要があると考えます。ネット社会におけるフェアユースの概念については、藤本英介弁護士の「ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)」をご覧ください。

チカッパ!ブログリリース

従来のブログの時系列表示だけでなく、様々な趣向を凝らした表現が可能な新感覚ブログがレンタルサーバー「チカッパ!」上に誕生しました。

「チカッパ!ブログ」

うにょーんって動いたり、にゅにゅーってなったり。管理画面はすごいことになってます。いやー、今後が楽しみです。

無断リンクと著作権の関係

また無断リンクネタかっ!









というわけで、無断リンクと著作権の関係について考えてみます。但し、「無断リンクは著作権を侵害してない」という考察ではなく、敢えて「無断リンクは著作権を侵害している」という論証を試みてみます。

まずは、著作権とは何か、そして著作権法は何のためにあるのかから考えてみます。


■著作権とは?
英語で表現するとCopyrightということからも分かるように、一番初めは「複製」する権利のことを指していました。この複製する権利というのは、グーテンベルグが活版印刷を発明し、安価に複製を作成することができるようになってから、初めて問題になりました。

そのあたりについては、長々と話すといくらでも書けるのですが、そのあたりはWikipediaの著作権の項目に任せるとして、現在の著作権とは「著者が自分の作品を自由に扱うことができること」だと考えていれば、ほぼ間違いはありません。


■著作権法とは?
そして、著作権法とは上記の著者の権利を守ることによって、創作するためのインセンティブ(誘因)の付与を狙い、それによって文化の発展に寄与することを目的としています。

(私なりの言葉にしてみましたが、著作権法の第1条を読んだ方が分かり易いかもしれません。)


■今回の論点は複製権
さて、今回は複製権に目を向けてみます。では、インターネットの世界において複製権とは何なのでしょうか?

基本的にインターネットの世界において著作権の定義といえば、日本の著作権法では「公衆送信権」とか「送信可能化権」とか言われており、複製権というのは耳にしません。

というのも、インターネットにおいては、純粋な「複製権」を保護することはできないと考えられているためです。例えば、私のこの文章を表示するためには、読んでる貴方のマシンに文章の複製が作成されていますし、他にも代理サーバー上に残っているかもしれません。厳密に複製に対して権利を行使するのであれば、貴方のマシンや代理サーバーの中身まで私がコントロールしてもよいことになります。

しかし、これは明らかにおかしいです。私が著作権者だとして、そんなところまでは権利を濫用する気にはなりませんし、それが通常の感覚だと思われたのでしょう。インターネットの世界においては、複製権ではなく前述の公衆送信権という新しい権利が作成され、現在の著作権法に盛り込まれています。

この複製権や公衆送信権というのは、著作物自体の動きを見たときには、どの部分に該当するかというと「流通」の部分になります。(ここ、ちょっとだけ論旨が飛躍してます。上手く説明できる自信がないので省略します。)

実は、今回の考察の一番のポイントはココです。複製権を重視してきたのは、それまでは流通部分を抑えることで著作者の権利を適切に保護できていたのです。

ですが、インターネットの登場により適切に保護できなくなりました。それはインターネットの世界では、基本的に流通の部分に「実体」がないためです。


■で、リンクとは?
では、リンクとは何に当たるのでしょうか?ココまでの話の流れを追ってきたら分かると思いますが、インターネットにおける「流通の実体」部分だと考えられなくもないです。

流通部分を抑えて複製を適切にコントロールすることを複製権の肝心な箇所だと考えると、無断リンクとは無断複製に置き換えることができるという可能性を残していると言えるでしょう。


■結論
色々書いてきましたが、全て私の妄想に過ぎず、今現時点の著作権法では、無断リンクすること自体で他者の著作権を侵害することにはなりません。

ですが、著作権は年々強化されています。例えば「私的録音録画補償金制度」なんて制度が拡大しつつある事実からも分かります。

この情勢の中で、一旦流通部分から目をそらすことで成立した「公衆送信権」の見直しが行われ、複製権を適切にコントロールできる可能性として「リンク」に目が向くというのは可能性としてなくはないでしょう。

なんで上記のような可能性がなくはないと思うかというと、リンクを辿るという行為を冷静になって傍目から見た場合、リンクを辿って見ているコンテンツは「リンク元とリンク先がつながりのあるコンテンツ」と見えなくもありません。そうすると、他者の著作権を侵害していると考えることができるためです。







誰ですか。「そんなこと言っても、インターネットはリンクこそが成立要件だ」みたいなことを言う人は。そんなのは100も承知です。その上で、敢えて著作権法に絡めて話を進めてみました。

まあ、無断リンクする方もされる方も、もうちょっと冷静になりましょう。リンクという行為自体が変な方向に行っちゃうと悲しいですし。

そして、実は可能性として、別の可能性も考えています。それは、無断リンクすることでリンクを辿ってgoogleがキャッシュに複製してしまいます。そうすると、無断リンクというのは、複製権の侵害を幇助してるという可能性が出てくるんじゃないかという考察です。

まあ、これはgoogleのキャッシュや検索結果というのは「フェアユース」だというgoogleの言い分を跳ね除けた上で初めて成立する要件になります(日本にフェアユースの概念はありませんが^^;)し、なんだかgoogleを神格化しちゃいそうで個人的に面白くないです。

ROでの不正通貨作成について思うこと

たかがゲーム,されどゲーム ――ガンホー,ROでの不正通貨作成について
(http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.07/20060721164207detail.html)


ROでゲームマスターが不正に1400万円を稼ぎ出した記事である。

大昔に、「銀行員の給料が高いのは、銀行員は他人の多額のお金を扱う立場にあるため、不正を起こし難いように満足できるだけの給料を与えておくのが一般的」という意見に噛み付いたことがある。

そんな理由で、対して結果も残してない人が高給取りになるのは、社会通念上許されないと感じたからだ。

しかし、今回のこの記事を読むと、大昔にたてついた意見にも一理あるんだと感じた。

というのも、多くの方はご存知だと思うが、MMOにおけるゲームマスターというのは、ほとんどがアルバイトという立場であり、とてもじゃないが高給取りという立場ではない。

そういう立場の人間に、チェック体制も甘くいくらでもお金を得ることのできるシステムの権限を与えるとどうなるかという実例ではないかと思う。

この場合に直接打撃を受けるのは、あるはずもないお金を生み出されたMMOゲーム内の価格相場である。その影響を受けた超インフレ市場に置いては、新参者は欲しい物ではなく必要な物すら買えず、どんどん脱落していく。

めぐりめぐって、最終的に打撃を受けるのはMMO運営会社であることは言うまでもない。

そのようなリスクヘッジを怠っただけの罰を受ける運営サイドは良いとしても、お金を払って楽しんでいる一般ユーザーの気持ちを考えるとやるせないというのが、正直な感想だ。

ファイルアップロード時のエラーの取り方

仕事上、久しぶりにPHPを触りました。

その中でファイルのアップロードをする部分を作成したのですが、ファイルアップロード時のエラーって

$_FILE['任意の名前']['error']

で取得できるんですね!超マメ知識でした。

YouTubeにおける著作権の問題について

YouTubeを使ったテレビ番組の『引用』の合法性に関する一考察
(http://blog.japan.cnet.com/nakajima/archives/002994.html)


「YouTubeを使ってTVをキャプった動画の共有する」状態に対して、「著作権」という視点から様々な意見が出てきている中の一つの記事です。

元記事から細かく引用しながら言及したくなったのですが、書き始めたらめんどくさくなったので、著作権法の目的と引用に関する重要な点だけを書いておきます。

著作権法の目的については、一番分かり易い著作権法から引用します。

第一節 通則
(目的)
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。


これ以上の説明は要りません。次、引用の重要な点です。引用についても、とりあえず条文を引用します(なんだかややこしい)。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。


というわけで、著作権法の目的にそった形で引用を理解するとすれば、引用は報道や批評や研究といった、著作物を利用して「文化の発展に寄与」することを期待されています。

それを考えると、「これは著作権者の利益になるから引用として認められる」なんてことは、とてもじゃないけど口に出せません。

というか、引用の条文を読めば分かりますが、例え著作権者の不利益になったとしても著作物を利用できる事を指して「引用」と呼ぶのであり、「著作権者の利益になってるから」なんて理由で「引用である」なんて論旨にはしない方が良いでしょう。

今のYouTubeの使われ方は、著作権者が著作物を頑張って作っていこうと思わせる(=文化の発展に寄与)ような流れにはありません。逆に、「自分が作った著作物を勝手に使われる」という、著作権法が出来る以前の状態になっているだけです。

そして、一番大事なのですが、「それが著作権者の利益になってるから良い」というのでは、利益にならなくなった瞬間に潰されます。(そういったコントロールを権利者ができるようにしたというのが著作権法なわけですが。)

著作権について引き続き考えて行くのであれば、何故著作権法が出来たのか、著作権法が守っているのは何なのかをもう一度考えて欲しいです。

■蛇足
元記事に対して上記記事をトラックバック送信しようと思い、念のためトラックバック一覧の記事を全部読んだのですが、その中で一個だけ面白い記事発見しましたのでリンクしておきます。ぜひ読んでみてください。

中島氏、薪をくべる

そろそろPHPのフレームワークをまじめに検討してみる

昨今、色んなフレームワークがPHPで出てきている。省力化するために必要だと言われており、そのために出てきた概念だが、本当に省力化できているのか。そのために必要なことは何なのか。導入するだけで良いのかなどを検討していきたいと考える。

えらそうなこと書いてるが、実際PHPのフレームワークなど触ったこともほとんど無い状態なので、これから徐々に勉強していこうという決意表明みたいなものだ。

まず、フレームワークとは何かという点から考えてみる。

私は、長年Windowsのアプリケーションを作成していたプログラマであり、Windowsの世界にはMFCという巨大なフレームワークがあって、私は傍流のボーランド系のVCL上で開発を続けてきた経緯も関係して、統合環境のないフレームワークというものに懐疑的である。フレームワークはフレームワークを利用する環境全てを整えた上で、初めて「フレームワーク」になるのではないだろうか?

Windowsの世界で言えばVCLにしてもMFCにしても、はっきり言ってどちらにも利点があれば欠点もある。でも、二つともにはっきりと言えることは、Windowsのアプリケーションを作成するのであれば、これらを利用した方が圧倒的に短い時間で作成することができる。

「作成できる」と言い放ってしまうと問題があるかもしれない。「使い方次第で圧倒的に短い時間で作成することができる。」と言った方が適切だろう。それは、フレームワークを使うことによる利点と欠点の両方があるからだ。但し、VCLにはDelphiやBorlandC++Builder、MFCにはVisualStudioといった素晴らしい統合環境(RADツール)が存在するため、現在のPHP界隈のフレームワークとは全く違う世界を醸し出している。

そして、私がVCLを長年使ってきて一番恐れ入ったのは、そのクラス設計の素晴らしさによるところが大きい。(PHP自体クラス設計をまともに行える仕様じゃないので、これはちとキツイか話か)

というわけで、クラス図すら用意されてないフレームワークを利用する気にもならないので、次回以降、色んなフレームワークのクラス図を作成するところから初めて見たいと思う。
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